2012年4月15日日曜日

温泉奇譚(苦痛が染みついた宿)


何年か前、中規模のプロジェクトで私は、都内にある○○のラボに出向していた時期があった。そこには、サブシステム単位で様々な会社から開発者達が寄り集まっていた。プロジェクトも終盤にさしかかっており、その頃には連日帰れないチームも続出、帰れるチームでも終電は当たり前の状況に追い込まれていた。誰もが皆、数週間続けて睡眠時間が日に3〜4時間しかとれていない。そういった時には、何故か異常にハイテンションになるものだ。部屋全体が、ぴりぴりと張りつめつつ気怠げな独特の空気に包まれていた。そんな状態だったから、彼は面識もない私にその話をしたのかもしれない。担当するサブシステムも違うし、もちろん別の会社の人間であるから、私は彼の名前も知らない。喫煙所で、たまに顔を合わせるだけ� �った。その時も、深夜煮詰まって煙草を吸いに行った喫煙所で、彼と顔を合わせた。たわいない雑談が自然と、渇望する休日、そして温泉の話に向いた時、思い出したように彼は話し始めた。「ちょっと訳ありの旅行だったんだけどさ...」


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それより一年ほど前、彼は女性を誘って近県の温泉に一泊旅行に行ったそうだ。女性は彼の会社で雇った外注さん。実は女性には旦那がいて、つまりは不倫となるわけなのだが、それは話の本筋とは関係ないので端折る。その宿を宿泊先に決めたのは、有名でなく、かといってしょぼくれてなく、そこそこの趣を感じられ、しかも比較的新しく清潔そうな建物がいい、という我侭な要求を満たしていたからだった。一泊で行くのに近場であることも絶対条件だったので、その宿はまさにうってつけだと感じられた。建物は近年建て替えられたが、実は歴史ある温泉で、しかも一軒宿ということも気に入った要因だそうだ。

二人は宿に到着して車を降りた。数千本の丸太を使って作られたという建物が、森に囲まれてひっそりと建っていた。思った以上にベストチョイスだったな、と彼は内心ほくそ笑んだ。ところが、喜ぶと思った女性の方はというと、車を降りて宿を見た途端、建物に目を釘付けにしたままみるみる青くなって固まった。嫌だ、帰る、とまで言い出す始末。何かを感じているらしいのだが、しかし彼にはそれが何だかわからない。彼女も理由を言わないので、彼はうろたえた。ここまで来て、今さら帰れるかよ。必死だったに違いない。どうにかこうにかなだめすかしながら、なんとかチェックインすることに成功した。


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「でもなんだか知らんけど、怖いのがさ、部屋に向かう時とか、突然びくっとして立ち止まるわけよ。何度もよ。あ、こりゃ何か見えてんな、と思ったね。」

そうは思ったが、彼は欲望が勝り、とにかく今晩のこの機会を逃すまいと決心していた。

「たまらんのがね、飯食ってる時にさ、時々じぃっと、俺を通り越して俺の後ろの壁を見つめたりするのよ。こえ〜よ、さすがに。ぞくっとする。」

彼女はろくに夕食も食べず、せっかく温泉に来ていながら風呂に入ることもなかった。彼はひとりで大浴場の湯に浸かりながら、少し後悔し始めていた。風呂から戻っても、やはり彼女は脅えたような表情で、相変わらず無口だ。肩にちょっと手を触れただけで、大袈裟なくらいびくっと体を固くする。こんな状態に、欲望むき出しだった彼も、さすがに萎えてしまったそうだ。それでも翌朝には状況が変わるかもしれないと淡い期待を抱きながら、とにかくその夜は何もせずに寝ることを決めた。


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「ところがね、何時かなぁ、ふっと目が覚めたのね。したら泣いてんの、その女。いや、眠ってるのよ。眠りながら泣いてんの。しかもさぁ、しくしくみたいな可愛げな泣き声じゃなくて、低い、なんつうか地を這うような呻き声なわけよ。苦しそ〜なね。真夜中に二人っきりで、相手がそんな状態になってみ?もうね、尾てい骨から頭のてっぺんに怖気が走ったね。」

結局そのまま彼は一睡もできず、朝を迎えると朝食もとらず逃げるように彼女と宿を後にした。帰りの道すがら、落ち着きを取り戻した彼女から、どうにか事情を聞き出した。彼女によると、いくつもの霊が見えていたらしい。しかしそれ以上、具体的には彼女は語ろうとしなかったそうだ。

彼の行った県には、私の勤めていた会社の支社がある。地元の人間しか知らないような温泉情報も私は仕入れていた。彼の話を聞いた時、ぴんと来るものがあった。もしかしてそこ、○○温泉?と聞くと、そうだと言う。ああ、なるほど…。


昔、その県の外れで飛行機事故があった。数百名の死者を出す大惨事だった。運び出されたおびただしい数の離断遺体は、現場から数十キロ離れた市民体育館に安置され、検死作業、身元確認作業が数ヶ月にわたり行われた。現在その体育館は解体され、新しい建物に変わっている。問題の宿は、事故現場からもこの体育館からも離れた場所にあり、一見なんの関係もないように思われる。しかし、この宿のオーナーはかなりのくせ者らしい。遺体安置に使われた体育館が解体された後、その木材を破格の安値で買い取り、宿の改築に利用したというのが専らの噂である。おかげでこの宿は、モダンながらも趣のある建物に生まれ変わり、そこそこ人気が出たそうだ。だがもしそれが事実だとしたなら、その材木には被害者達の様々な無� ��が、今も染み込んだまま宿と共にあるのかもしれない…。

その話を聞かせると彼は、信じられないという表情で首を振った。「どうゆう奴よ、それ。つか普通、やらんよなー、そんなこと…」

ところで、彼はその女性とその後どうなったのだろう。

「あの後はもう、その女には近づかんかったよ。だから、それっきりもう終わり。てかさ、霊感のある奴なんかと付き合いたくねえ。てか霊感あるような奴は友達だってなりたくねえ。」

かなり懲りたようである。



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